2017年12月6日付けの琉球新報「美術月評」に掲載いただきました。
2016年7月20日水曜日
2016年7月11日月曜日
2016年5月17日火曜日
掲載記事
2016年5月13日(金)琉球新報
マブニ・ピース・プロジェクト 作家・関係者が公開座談会
先日行われた座談会について、琉球新報に記事が掲載されています。
パネリスト6名と参加作家が一言話すだけで、時間はいっぱいになってしまったけれど、
参加表明的な意味合いで開催されたと認識しています。
参加された関係者以外のみなさんとの意見交換の時間が足りなかったのは残念でした。
fbでは、当日の発言メモも共有されています。
すでぃる -Regeneration Facebooページ
様々な意見あるでしょうが、関わる一人一人がどのような意思で参加しているのか、
そういったことを聞ける場になったのはよかったかもしれません。
来週末には搬入が始まります。
制作が、、、間に合うのだろうか。
毎度のことですが、ギリギリです。
マブニ・ピース・プロジェクト 作家・関係者が公開座談会
先日行われた座談会について、琉球新報に記事が掲載されています。
パネリスト6名と参加作家が一言話すだけで、時間はいっぱいになってしまったけれど、
参加表明的な意味合いで開催されたと認識しています。
参加された関係者以外のみなさんとの意見交換の時間が足りなかったのは残念でした。
fbでは、当日の発言メモも共有されています。
すでぃる -Regeneration Facebooページ
様々な意見あるでしょうが、関わる一人一人がどのような意思で参加しているのか、
そういったことを聞ける場になったのはよかったかもしれません。
来週末には搬入が始まります。
制作が、、、間に合うのだろうか。
毎度のことですが、ギリギリです。
2016年5月6日金曜日
2016年5月4日水曜日
2015年12月14日月曜日
2014年9月3日水曜日
2014年8月5日火曜日
愛おしい光
2014.8.3(日)付け沖縄タイムス「アートさんぽ」に掲載されました。
ーーーー
暑い、どこか落ち着く場所へ
何となく気になっていた小道を行く
海が空が雲が葉が花が
強い陽の光を浴びて鮮やかに色を放つ
建物が機械がひしめき合って海岸の側まで占拠する
距離感が壊れるほどに夏の光は景色を照らす
雑草が生い茂った道を進む
今は亡き人々が眠る場所に辿り着く
葉っぱの隙間でモゾモゾと虫たちが蠢いている
目にはいる全ての色は濃く、夢みたいに全部がそこにいる
溶けてしまいそうだからこそ全部ひとつになる
夜、丘から見える水平線
暗がりに点々と光る人工的な光の群集
足下に蛍一匹
チラチラと点いては消えて
草むらの影に姿を消した
夏の湿り気を残しながら
だんだんと冷めていく残り熱
そよ〜と風が通り抜けていく
草影からつい~と楽しげに戯れる二つの光
さっき見失った蛍が仲間を連れて来たのだろうか
響き合って遊ぶ生きる光の粒は小さくても美しい
愛おしい光、これらもずっとそこに居て欲しいと思った
声なくとも存在するものに耳を澄ます
未知の先に目を凝らす
2013年6月25日火曜日
終わらない問い
6月24日(月)付けの沖縄タイムス「唐獅子」に掲載されました。
ーーーーーーーーーーーーーー
「樽(たる)流し」という風習をご存じだろうか。
海の神様に対する信仰をあらわす手段で、直接奉納に行けない人々などが
海上安全を祈って、初穂などの献上品を酒樽に入れて海に流す。
それを見つけ拾い上げた人が、金刀比羅宮へ持っていき代わりに参拝する。
樽を流した人、拾い上げた人、双方に神のご加護が得られるという
瀬戸内地方の習わしらしい。
前回、「瀬戸内国際芸術祭2013」に出展するため、
香川の本島(ほんじま)を訪れたことに触れたが、
そのときに、たまたま流し樽を拾い上げた方にお会いした。
私は、そうした風習があることを、そのとき初めて知った。
流し樽を見つけたのは、友人の義母のお兄さん。
お宅におじゃましたとき、流し樽に同封された手紙を見せてくれた。
そこには「金刀比羅宮へ奉納してくださる方へ」と、
樽を拾い上げてくれた人に対する代参のお願いと奉納者の名前などが書かれていた。
誰とも知らない相手に祈りをのせた樽を託し、海に流す。
潮の流れでどこに行くとも知れない樽は、どんぶらこっこ、ざんぶらこっこ、
流れ流れて、祈りを託される相手を探すように波に揺られ続ける。
海の上に浮かぶ樽を見つけた人は、それを拾い上げ、
祈りを届ける責任を受けて、金刀比羅宮へと奉納する。
海に対して人間が契りを交わすための儀式。
自然界と人間との契り。
自然からの恩恵を感じ、感謝し、バランスを崩してしまわないように、
侵してはならないルールを守る。
人間が自然に対して契りを交わし、自然界を通して生を営み、存在すること。
奉納者からの代参のお願いが書かれた手紙を見て、そんなことを感じた。
そして、それは個人と個人とが契りを交わし、
家族になることとも通じるように感じた。
家族として幸せに暮らせるようにと祈りを込める。
愛情を誓い、互いを認め合い理解し合い、ともに過ごすこと。
個人が個人に対して契りを交わし、家族として存在することと、
人間が自然界で存在することは、同じことのように思った。
ここにいるために、何に対して何を守り、何を誓い、どう存在していけるのか。
流れ流れて託された手紙を前に、終わらない問いかけを投げられた気がする。
ーーーーーーーーーーーーーー
「樽(たる)流し」という風習をご存じだろうか。
海の神様に対する信仰をあらわす手段で、直接奉納に行けない人々などが
海上安全を祈って、初穂などの献上品を酒樽に入れて海に流す。
それを見つけ拾い上げた人が、金刀比羅宮へ持っていき代わりに参拝する。
樽を流した人、拾い上げた人、双方に神のご加護が得られるという
瀬戸内地方の習わしらしい。
前回、「瀬戸内国際芸術祭2013」に出展するため、
香川の本島(ほんじま)を訪れたことに触れたが、
そのときに、たまたま流し樽を拾い上げた方にお会いした。
私は、そうした風習があることを、そのとき初めて知った。
流し樽を見つけたのは、友人の義母のお兄さん。
お宅におじゃましたとき、流し樽に同封された手紙を見せてくれた。
そこには「金刀比羅宮へ奉納してくださる方へ」と、
樽を拾い上げてくれた人に対する代参のお願いと奉納者の名前などが書かれていた。
誰とも知らない相手に祈りをのせた樽を託し、海に流す。
潮の流れでどこに行くとも知れない樽は、どんぶらこっこ、ざんぶらこっこ、
流れ流れて、祈りを託される相手を探すように波に揺られ続ける。
海の上に浮かぶ樽を見つけた人は、それを拾い上げ、
祈りを届ける責任を受けて、金刀比羅宮へと奉納する。
海に対して人間が契りを交わすための儀式。
自然界と人間との契り。
自然からの恩恵を感じ、感謝し、バランスを崩してしまわないように、
侵してはならないルールを守る。
人間が自然に対して契りを交わし、自然界を通して生を営み、存在すること。
奉納者からの代参のお願いが書かれた手紙を見て、そんなことを感じた。
そして、それは個人と個人とが契りを交わし、
家族になることとも通じるように感じた。
家族として幸せに暮らせるようにと祈りを込める。
愛情を誓い、互いを認め合い理解し合い、ともに過ごすこと。
個人が個人に対して契りを交わし、家族として存在することと、
人間が自然界で存在することは、同じことのように思った。
ここにいるために、何に対して何を守り、何を誓い、どう存在していけるのか。
流れ流れて託された手紙を前に、終わらない問いかけを投げられた気がする。
ことのはじまり
2013年6月10日(月)付けの沖縄タイムス「唐獅子」に掲載されました。
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昨年9月、本島(ほんじま)という島にはじめて訪れた。
香川県丸亀市に属する島で、塩飽諸島と呼ばれる島のひとつ。
塩飽水軍の拠点の島だったそうで、江戸時代の政庁跡である塩飽勤番所はじめ、
歴史・文化財が多く残っており、島の北東に位置する笠島地区は、
重要伝統建造物群保全地区にも選定されている。
さて、なぜ私が本島に行ったのかというと、
そこで「瀬戸内国際芸術祭2013」という国際展に友人と出展することになったからだ。
香川に嫁いだ友人の義父が所有する土地が、本島の屋釜地区にある。
その場所は、友人の旦那さんがまだ小さい頃、本島に家族で通った思い出の場所らしい。
義母は本島出身で、その祖父母は現在も島で生活をしている。
子どもたちが小さいときは、よく家族で祖父母に会いに島に訪れたそうだ。
そして、海水浴を楽しみ、義父の所有する土地に
簡易的に建てた別荘で数日宿泊もしていたそうだ。
その後、もう一件、本格的な別荘を建てる計画をしていたが、
子どもたちの成長とともに、島に訪れる機会が減っていき、
基礎造成したところで建設は中断してしまった。
ここ数年は、義父と旦那さんが年に数回、管理のため
土地に除草剤を撒きに島を訪れるだけになっていたそうだ。
思い出の残る土地が管理のためとはいえ、
除草剤がまかれ続けることに疑問を感じ、
作品を通して、緩やかでも何かが変わっていくことを期待して、
作品を制作することを決めた友人に声をかけてもらい、
今回一緒にその場所で作品をつくることになった。
結婚をして生まれ育った土地とは別の土地で生活をすること。
新しい家族の中に入ること。義父の土地を使わせてもらって作品をつくること。
それらは何かのことのはじまりのように思えた。
滞在中、家族と接するときも、
成途中のコンクリートの建築物が残るその土地に立ってみたときも、
心の中で何ができるのかを問いかけた。
展覧会の規模、発表する場所や関係性など様々な面で、
今回の制作は私の中にも新たな何かを見いだす機会になるように思える。
大学時代、制作して発表することに
はじめて向き合った時間を一緒に過ごした友人とのこの特別な時間を
丁寧に過ごし、関わっていきたい。
おじゃまします
5月27日付けの沖縄タイムス「唐獅子」に掲載されました。
ーーーーーーーーーーーー
他人の家などに入るとき、「おじゃまします」とあいさつをする。
これは、プライベートなスペースに入らせてもらう上で、
相手の許可を得るための礼儀である。
これと同じように、家だけでなくいろんな場面で
「おじゃまします」という気持ちを持って場所に関わることというのは、
とても大事なことであると思う。
例えば、森。森の入り口で、「おじゃまします」と一礼しないと
何だか自分勝手に人様の家に入り込んだような居心地の悪さを感じる。
川や海に足を浸す瞬間も、言葉には出さないけれども、
入らせていただくという気持ちをもって、
ざっぷんとした波にひたっと足を入り込ませる。
私の足が入り込むことで、さらさら流れる水の流れは変わるから、
流れにおじゃまする気持ちですーっとくぐらせたりする。
夜の「ぬーぬー」と揺れる黒い海を目の前にしたとき、
うっそうとした木々を抜けて「すこーん」と
抜けてるような場所に訪れた瞬間にも、
そういう気持ちを込めてその場所に足を踏み入れる。
知らない土地や人様の大事な場所に入るときも然り。
「おじゃまします」という気持ちを込めて、足を踏み入れることで、
その場所、土地と自分自身を向き合わせる。
入り込む側に、プライベートな場所だと感じさせたり、
何か特別だと感じさせる場所。
その場所にとっては、入り込んでくるもの自体が異質な存在なんだと思う。
人間の身体もそうだけど、免疫のない異物が入ってくると、
それを追い出そうと抵抗する、そういう反応は自然なことだと思う。
勝手に人様の家に入れば、その家の人はびっくりして、
追い出されるのは当然のことだ。
こんもりした森も、いろんな表情で揺れて流れる海や川も、
今ここに立っている足元の土地も異物が入り込めば、
大きなストレスを感じるだろう。
人の身体が示す反応は、自然界にも同じように当てはまるものだと思う。
びっくりもするし、急な変化にはストレスも感じるだろう。
私は怪しいものではございません、自分勝手に荒らしたりしません。
敬意を払っておじゃましますので、どうぞよろしくお願いします。
その場所と自分とを向き合わせるための約束の姿勢が
「おじゃまします」なんじゃないだろうか。
他人の家などに入るとき、「おじゃまします」とあいさつをする。
これは、プライベートなスペースに入らせてもらう上で、
相手の許可を得るための礼儀である。
これと同じように、家だけでなくいろんな場面で
「おじゃまします」という気持ちを持って場所に関わることというのは、
とても大事なことであると思う。
例えば、森。森の入り口で、「おじゃまします」と一礼しないと
何だか自分勝手に人様の家に入り込んだような居心地の悪さを感じる。
川や海に足を浸す瞬間も、言葉には出さないけれども、
入らせていただくという気持ちをもって、
ざっぷんとした波にひたっと足を入り込ませる。
私の足が入り込むことで、さらさら流れる水の流れは変わるから、
流れにおじゃまする気持ちですーっとくぐらせたりする。
夜の「ぬーぬー」と揺れる黒い海を目の前にしたとき、
うっそうとした木々を抜けて「すこーん」と
抜けてるような場所に訪れた瞬間にも、
そういう気持ちを込めてその場所に足を踏み入れる。
知らない土地や人様の大事な場所に入るときも然り。
「おじゃまします」という気持ちを込めて、足を踏み入れることで、
その場所、土地と自分自身を向き合わせる。
入り込む側に、プライベートな場所だと感じさせたり、
何か特別だと感じさせる場所。
その場所にとっては、入り込んでくるもの自体が異質な存在なんだと思う。
人間の身体もそうだけど、免疫のない異物が入ってくると、
それを追い出そうと抵抗する、そういう反応は自然なことだと思う。
勝手に人様の家に入れば、その家の人はびっくりして、
追い出されるのは当然のことだ。
こんもりした森も、いろんな表情で揺れて流れる海や川も、
今ここに立っている足元の土地も異物が入り込めば、
大きなストレスを感じるだろう。
人の身体が示す反応は、自然界にも同じように当てはまるものだと思う。
びっくりもするし、急な変化にはストレスも感じるだろう。
私は怪しいものではございません、自分勝手に荒らしたりしません。
敬意を払っておじゃましますので、どうぞよろしくお願いします。
その場所と自分とを向き合わせるための約束の姿勢が
「おじゃまします」なんじゃないだろうか。
2013年5月27日月曜日
つながる瞬間、ぴぴぴっ
2013年5月13日(月)付けの沖縄タイムス「唐獅子」に掲載されました。
また、本日付けの沖縄タイムス「唐獅子」に
「おじゃまします」という文章も掲載されています。
どうぞこちらもよろしくお願いします。
ーーーーーーーーーーー
人はどんな流れでものを見て、何を感じているのだろう。
そのときの状況とか心境とかいろんなことが関わってくるけれど、
どこに視点がいき、そこから何を受け 止めて、何を感じるのか。
それらをひとつひとつ見つめたら、その人の内面が見えてくるように思う。
その人が発する言葉を聞いて、言葉と一緒ににじみ出る内側に意識を持っていく。
その人を受け入れたり、一緒に考えていくってどこに意識をもっていくことなんだろう。
沖縄市一番街のKOZY CENTRALビルを拠点に、
沖縄クリエイターズビレッジ(OCV)のスタッフとして働くようになって2年目。
「何をやっている の?」と聞かれることがよくあるが、
私が関わっているのは、展覧会やイベントの企画運営、
商店街に新しくオープンしたスペースをPRするお手伝いなど。
その中でも、昨年から継続して行っている「かこむ会」というイベントを通して、
私がどうしてOCVに関わっているかをお話してみたい。
「かこむ会」は、ご飯をかこんでゲストの活動や思いについて
参加者がお話を聞き、おしゃべりするトークイベント。
よくある形式だけれど、ご飯を一緒にかこんでお話すると、
その人の素直な部分がひょいっと見えるから不思議。
素直なその人が見えると会話ははずみ、
その人が持っている引き出しを一緒になって楽しむことができる。
これまで、一番街商店街でお店を営む方をはじめ、
県内でユニークな活動をされている方や県外からのゲストなど、
いろんな方にお話していただいた。
参加者の みなさんともおしゃべりする時間の中で
「ぴぴぴっ」と小さいけれどとても大切な部分に刺激をいただいている。
この「ぴぴぴっ」は、変化が始まる瞬間のお知らせ。
話す相手の内側からにじみ出たものに刺激を受けた瞬間から、
視点の運び方とか意識の持ち方が少しずつ変化するって面白いと思う。
個人の活動や生活の中で考えていることを共有し合える
時間や場所をつくりたいと私は思っていて、
OCVではそれができるのではないかと思って活動に関わっている。
「ぴぴぴっ」な瞬間が訪れるとき、そこにいる人との不思議な縁が始まる。
また、本日付けの沖縄タイムス「唐獅子」に
「おじゃまします」という文章も掲載されています。
どうぞこちらもよろしくお願いします。
ーーーーーーーーーーー
人はどんな流れでものを見て、何を感じているのだろう。
そのときの状況とか心境とかいろんなことが関わってくるけれど、
どこに視点がいき、そこから何を受け 止めて、何を感じるのか。
それらをひとつひとつ見つめたら、その人の内面が見えてくるように思う。
その人が発する言葉を聞いて、言葉と一緒ににじみ出る内側に意識を持っていく。
その人を受け入れたり、一緒に考えていくってどこに意識をもっていくことなんだろう。
沖縄市一番街のKOZY CENTRALビルを拠点に、
沖縄クリエイターズビレッジ(OCV)のスタッフとして働くようになって2年目。
「何をやっている の?」と聞かれることがよくあるが、
私が関わっているのは、展覧会やイベントの企画運営、
商店街に新しくオープンしたスペースをPRするお手伝いなど。
その中でも、昨年から継続して行っている「かこむ会」というイベントを通して、
私がどうしてOCVに関わっているかをお話してみたい。
「かこむ会」は、ご飯をかこんでゲストの活動や思いについて
参加者がお話を聞き、おしゃべりするトークイベント。
よくある形式だけれど、ご飯を一緒にかこんでお話すると、
その人の素直な部分がひょいっと見えるから不思議。
素直なその人が見えると会話ははずみ、
その人が持っている引き出しを一緒になって楽しむことができる。
これまで、一番街商店街でお店を営む方をはじめ、
県内でユニークな活動をされている方や県外からのゲストなど、
いろんな方にお話していただいた。
参加者の みなさんともおしゃべりする時間の中で
「ぴぴぴっ」と小さいけれどとても大切な部分に刺激をいただいている。
この「ぴぴぴっ」は、変化が始まる瞬間のお知らせ。
話す相手の内側からにじみ出たものに刺激を受けた瞬間から、
視点の運び方とか意識の持ち方が少しずつ変化するって面白いと思う。
個人の活動や生活の中で考えていることを共有し合える
時間や場所をつくりたいと私は思っていて、
OCVではそれができるのではないかと思って活動に関わっている。
「ぴぴぴっ」な瞬間が訪れるとき、そこにいる人との不思議な縁が始まる。
2013年5月13日月曜日
アートを通した会話
2013年4月29日(月)付けの沖縄タイムス「唐獅子」に掲載されました。
また、本日付けの沖縄タイムス「唐獅子」に
ーつながる瞬間、ぴぴぴっー という文章も掲載されています。
どうぞこちらもよろしくお願いします。
ーーーーーーーーーーー
2011年に解散した前島アートセンター(以下、MAC)。
また、本日付けの沖縄タイムス「唐獅子」に
ーつながる瞬間、ぴぴぴっー という文章も掲載されています。
どうぞこちらもよろしくお願いします。
ーーーーーーーーーーー
2011年に解散した前島アートセンター(以下、MAC)。
私はそこで大学卒業後、スタッフとして2年間働いていた。
拠点である那覇市前島3丁目にあった
TAKASAGOビルが閉鎖されるときに、
イベントを開催したのだが、その日のことを時々思い出す。
TAKASAGOビルが閉鎖されるときに、
イベントを開催したのだが、その日のことを時々思い出す。
MACによく遊びに来る小学生の女の子がいて、
ちょっと手のかかる子だったけど、
私にとってなんだか気になる存在だった。
ビルでの最後のイベントなので、買い出しに彼女を誘ってみた。
買い物を終えて、戻る車の中で、
もうすぐビルがなくなること、MACは新しい場所に移ること
(事務所は同じ前島3丁目内で
TAKASAGOビルのすぐ側に移ることが決まっていた)、
TAKASAGOビルのすぐ側に移ることが決まっていた)、
新しい場所にもたくさん遊びにきてほしいことを彼女に話した。
そして、ふと、「大きくなったら何になりたい?」と彼女に聞いた。
「アートセンターの人になりたい」と彼女は答えた
「へっ?」何だか以外なその答えに、
そのとき、うれしいという気持ちなのか何なのか、
私の胸はぎゅっと音をたてた。
彼女にとってのMACは何か残る存在であったのかもしれない。
そう感じられる時間の中に、私も存在できたことに対して、うれしくもあり、
これから美術や社会や子どもたちやそれを取り巻く環境のことに対して、
これから美術や社会や子どもたちやそれを取り巻く環境のことに対して、
自分自身がどう向き合っていくのかを問われているような気持ちにもなって、
どきりとさせられた。
何かを引き起こしたり、引き出したりするきっかけになりうるもの。
うみを吐き出し、進むことを後押ししてくれるもの。
アートにそういった可能性があるのだと信じて関わっているけれど、
時々わからなくなるし、不安になる。
大きく変化する華々しい効果の裏には置き去りにされるものがあるかもしれない、
でも、全てをすくい上げることなんて不可能で、矛盾が生じることだってある。
アートを通して、どう生きていくのかを
ああでもない、こうでもないと、言語を交わし続けることに意味がある。
いろんな人間が存在する世の中で、会話は尽きることはないだろう。
今あの子に会ったら、あの頃のことやこれまでのこと、
2013年4月29日月曜日
まもる
2013年4月15日(月)付けの沖縄タイムス「唐獅子」に掲載されました。
また、本日付けの沖縄タイムス「唐獅子」に
ーアートを通した会話ー というタイトルで掲載されています。
どうぞこちらもよろしくお願いします。
ーーーーーーーーーーーーー
暖かな陽の光を受け、紫、黄色、白のお花が色を爆発させている。
元気に育ったグリーンのハーブが茂る畑。
その側にある親戚の家のような喫茶店。
玄関を開けると「めんそーれー」と元気なオーナーの声が聞こえてくる。
南風原町津嘉山にある「喫茶やさい畑」。私はここのお店がすごく好きだ。
出てくるお料理もとてもいい。お野菜の味が染みた野菜汁は
一口すすると身体にじわっと染みる。
煮物や野菜炒めも野菜の味がよく出て優しくて、
口に含むとおいしくて笑ってしまう。
さくっとした野菜天ぷら、もちっとした紫色のいもくず天ぷら。
料理を口にする度、つくっている人の料理への愛情がすごく感じられる。
テーブルの上にのっかっている目の前の料理は、
お店の愛情で、それをまるごといただいているんだなあと感じる。
いろんな人がテーブルをかこんでお話をする。
オーナーとお客さんの会話がテーブルを飛び越えて聞こえてくる。
ここの味はここでしか食べられない。
ここの雰囲気はここにいる人にしか出せない。
そんな場所で「いのちの森 やんばる写真展」が先日まで開かれていた。
やんばるの自然を守る活動をしている「やんばるDONぐりーず」による展覧会だ。
美しい森とそこにすむ生き物たち。
そして、森林伐採が行われている現実。
私は、この展覧会がこの場所で開催されたことに必然性を感じている。
いい場所もすばらしい森も、人が必要とすることで存在し続けるものだと思うから。
森は本来、人間の好き勝手で変えられるものではなかったはず。
でも、放っておいたら、いつの間にか
「かつてはいのちの森だった場所」になってしまう可能性があるのだと知った。
おいしいご飯が食べられるお店と貴重な生き物が棲む森。
大切にする気持ちが同じくらい近いものになれば、
森は森として存在することができるのではないだろうかと思った。
前回も書いたが、建てる、造るのノウハウを「守る」方向へと転換できるはず。
自然界に入り込んで開発するのではなく、
今ある土地の中で生活を循環させていく知恵を身につけていくことがきっとできる。
ここに存在する一人として、何を必要とするのか、いま一度考え、意思表示していきたい。
また、本日付けの沖縄タイムス「唐獅子」に
ーアートを通した会話ー というタイトルで掲載されています。
どうぞこちらもよろしくお願いします。
ーーーーーーーーーーーーー
暖かな陽の光を受け、紫、黄色、白のお花が色を爆発させている。
元気に育ったグリーンのハーブが茂る畑。
その側にある親戚の家のような喫茶店。
玄関を開けると「めんそーれー」と元気なオーナーの声が聞こえてくる。
南風原町津嘉山にある「喫茶やさい畑」。私はここのお店がすごく好きだ。
出てくるお料理もとてもいい。お野菜の味が染みた野菜汁は
一口すすると身体にじわっと染みる。
煮物や野菜炒めも野菜の味がよく出て優しくて、
口に含むとおいしくて笑ってしまう。
さくっとした野菜天ぷら、もちっとした紫色のいもくず天ぷら。
料理を口にする度、つくっている人の料理への愛情がすごく感じられる。
テーブルの上にのっかっている目の前の料理は、
お店の愛情で、それをまるごといただいているんだなあと感じる。
いろんな人がテーブルをかこんでお話をする。
オーナーとお客さんの会話がテーブルを飛び越えて聞こえてくる。
ここの味はここでしか食べられない。
ここの雰囲気はここにいる人にしか出せない。
そんな場所で「いのちの森 やんばる写真展」が先日まで開かれていた。
やんばるの自然を守る活動をしている「やんばるDONぐりーず」による展覧会だ。
美しい森とそこにすむ生き物たち。
そして、森林伐採が行われている現実。
私は、この展覧会がこの場所で開催されたことに必然性を感じている。
いい場所もすばらしい森も、人が必要とすることで存在し続けるものだと思うから。
森は本来、人間の好き勝手で変えられるものではなかったはず。
でも、放っておいたら、いつの間にか
「かつてはいのちの森だった場所」になってしまう可能性があるのだと知った。
おいしいご飯が食べられるお店と貴重な生き物が棲む森。
大切にする気持ちが同じくらい近いものになれば、
森は森として存在することができるのではないだろうかと思った。
前回も書いたが、建てる、造るのノウハウを「守る」方向へと転換できるはず。
自然界に入り込んで開発するのではなく、
今ある土地の中で生活を循環させていく知恵を身につけていくことがきっとできる。
ここに存在する一人として、何を必要とするのか、いま一度考え、意思表示していきたい。
2013年4月11日木曜日
ここに存在するために
2013年4月1日付け沖縄タイムス「唐獅子」に掲載されました。
ーーーーーーーーーーーーー
窓の向こうに広がる景色は鮮やかな空色で気持ちがいい。
今日は洗濯日和だ。
靴下、下着、ズボン、上着、タオルにシーツ。
じゃぶじゃぶ洗い、ピンク色の干し紐に洗濯物をかける。
パンパンとお布団をたたいてぽかぽかの陽の光にあてる。
干し終わって、風にそよそよ揺れる洗濯物を眺めながら、のんびりする。
朝起きて、窓を開けてふわ〜っと風が入り込んでくる。
窓の向こうに広がる景色は
薄い膜がかかったようで水平線がはっきりしない。
今日はお布団を干すのはやめておこう。
開けた窓を閉める。
靴下、下着、ズボン、上着、タオルにシーツ。
洗ったものを室内に干す。
もう一度窓の外を見る。
太陽は出ているのに、遠くの景色が見えないほどもやっとしている。
室内で干された洗濯物は風でそよそよ揺れることはない。
思いっきり青空の下、洗濯物を干したい。
お布団をぽかぽかの陽に当てたい。
でも、そんな気持ちと同時に、
もしもこのモヤが晴れたとしても、変わらず道路と建物はあるし、
放っておけば増え続けるのだろうと思った。
そんな景色を眺めていると、
私たちが土地にすむことってどういうことだろうと考えさせられる。
こんなに小さな島に小都市をいくつもつくり、
山も海もけずり、棲む場所をなくした生き物たちが
灰色のコンクリート道路に飛び出してしまったり、
建物から発せられる蛍光灯の光が月の明るさよりも増してしまい、
生き物たちは本来向かう方向を見失う。
ここに存在して生きていく一員として、
人間だけが我が物顔でやりたい放題していいはずがない。
もう道路はいらない、新しい建物もいらない。
ほしいのは、豊かな自然と生き物たちと一緒に棲める環境だと心から思う。
建てる、造るのノウハウを「守る」方向へと転換できるはず。
自然界に入り込むことではなく、
今ある土地の中で循環させていく知恵を身につけてくことがきっとできる。
風も空気も海も川も山も土もみんなひとつ。
地球規模の崩壊には、私たち人間は太刀打ちできない。
私たちがここ存在していくために
すまわせてもらっていることへの感謝の気持ちをもって
行動する時期にきているのではないだろうか。
2013年3月27日水曜日
羅針盤
3月18日(月)付けの沖縄タイムス「唐獅子」に掲載されました。
ーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーー
「あ・・・っ」と言って、小さな指が指した先を見ると、白い月。
まだよちよち歩きができるようになったばかりの頃だったと思うけど、
月を見つけるのが上手なその子は、まだ明るい空に小さな指を向けて、
どこに月があるのかを教えてくれた。
月を起点に、自分が今どこにいるのかを感覚的に感じているように思えて、
20歳以上離れた小さな子どものそんな仕草に、
とっても感動したことを覚えている。
今、自分はどこに向かっているのだろう、
行く先がわからなくなることがときどきある。
そんなときに私は夜の海に向かう。
月が浮かぶ海を見て、揺れる波や音、光や潮のにおいを感じる中で、
だんだんと落ち着いていくし、そのときに必要でない部分をそぎ落としてくれて、
大丈夫、と先に進める力が湧いてくる。
光や色や風やにおい、自然界が与えてくれるいろんなものが、
身体や気持ちをクリアにしてくれる。
大学生の頃、こども対象の自然体験プログラムを手伝っていたことがあって、
子どもたちと一緒に山に登ったり、川や海で遊んだりしていると、
身体が地球と一体化しているような感覚を受けて、
それがとっても気持ちよかったことを思い出した。
夏の暑い日に、ざぶんと水の中に入れば、
太陽に温められてとろんとした水が身体を包んでくれて、
なんだか元気になってくる。
すーっとした森の空気を頭の中まで通すように吸い込んで、
ふぅっと息を吐き出すと、重く感じたものが不思議と抜けていく。
「自然体」って、自然と一体になることなんじゃないだろうか。
自然からのあるがままを身体を通して感じることで、
頭で考えていたことがそぎ落とされて、シンプルになれるからクリアになるし、
いろんなものがみえてくる。
そして、自然を感じることは羅針盤で方角を確認することに似ている。
森のおいしい空気を思いっきり吸い込む。
晴れた日に向こうの景色が気持ちよく見える。
川や海の水にたっぷり包まれる。
気持ちいいなぁと思うことが当たり前にできる環境を壊すことは、
自ら羅針盤を捨てて迷子になることのように思える。
白い月を指さしたあの子が大人になったとき、羅針盤をちゃんと残しておきたい。
2013年3月18日月曜日
身体が選ぶ食
3月4日付けの沖縄タイムス「唐獅子」に掲載されました。
今日は第6回目の掲載日です。
「羅針盤」というタイトルで文章書いたので、
よかったそちらもあわせてご一読ください〜。
ーーーーーーーーーーー
私は食べることがとても好き。
朝起きて、まず先に思うことは朝ごはんのこと。
蒸した野菜はいくら食べても飽きない。
丁寧につくられたパンは頬張るほどに楽しくなる。
お世話になっているおばちゃんの手作りのしょっぱい梅干しは、
眠気を吹き飛ばして元気になる。
お昼。何を食べようか楽しみでそわそわ。
スパイシーな味付けのものって食欲をそそる。
最近、自分がカレー好きだと気づいた。
カレーって、どこで出されても同じものはなく、
味も個性も違っていて、おいしくて楽しい。
夕食。眠るまでに胃を空っぽにして、明日に備えるために、
夜8時までには食べ終えたい。
夕食をどうするかが自分との戦いだ。
本当は野菜スープくらいで終わらせたいけれど、
なかなかそうはいかないのが悩みどころ。
でも、夜に食べ過ぎないことに気をつけると、翌日身体が軽くなる。
胃腸の調子が身体をつくるのだと実感する。
人生のうちで自分の身体にしっかり向き合う時期があってもいいだろうと思い、
1年半くらい前から体質改善のため、お野菜をメインにした食事に切り替えた。
生まれた時からアレルギー体質だったので、
身体の中に入れるものや身体に触れるもの、環境やストレスなどがもろに影響する。
30歳になる少し前から、何となく自分の身体と向き合う時間が必要な気がして、
体質改善のためいろいろ試すようになった。
身体に向き合うことは、自分に向き合うことだと感じた。
正直に生きるって何だろう、そんなことをたくさん考えるようになった。
私は食べることがとても好き。
でも、それは、制限があることを身体が知っているから、
頭がそれに逆反応して食べたいっていう欲求が強くなるのかもしれない。
身体の反応に正直になることは、頭で考えることから離れないとなかなかに難しい。
例えば、疲れているから甘いものを食べたい。
これは頭の反応。
でも、いざ甘いものを食べたら胃がもたれる。
これ、身体の反応。
食べ物を口にする前に、本当に身体が求めているものなのか、身体と対話する。
そうすると、身体からの答えが返ってくるように思う。
食べることと私はつながっている。
さぁ、今日は何を食べようか。
今日は第6回目の掲載日です。
「羅針盤」というタイトルで文章書いたので、
よかったそちらもあわせてご一読ください〜。
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私は食べることがとても好き。
朝起きて、まず先に思うことは朝ごはんのこと。
蒸した野菜はいくら食べても飽きない。
丁寧につくられたパンは頬張るほどに楽しくなる。
お世話になっているおばちゃんの手作りのしょっぱい梅干しは、
眠気を吹き飛ばして元気になる。
お昼。何を食べようか楽しみでそわそわ。
スパイシーな味付けのものって食欲をそそる。
最近、自分がカレー好きだと気づいた。
カレーって、どこで出されても同じものはなく、
味も個性も違っていて、おいしくて楽しい。
夕食。眠るまでに胃を空っぽにして、明日に備えるために、
夜8時までには食べ終えたい。
夕食をどうするかが自分との戦いだ。
本当は野菜スープくらいで終わらせたいけれど、
なかなかそうはいかないのが悩みどころ。
でも、夜に食べ過ぎないことに気をつけると、翌日身体が軽くなる。
胃腸の調子が身体をつくるのだと実感する。
人生のうちで自分の身体にしっかり向き合う時期があってもいいだろうと思い、
1年半くらい前から体質改善のため、お野菜をメインにした食事に切り替えた。
生まれた時からアレルギー体質だったので、
身体の中に入れるものや身体に触れるもの、環境やストレスなどがもろに影響する。
30歳になる少し前から、何となく自分の身体と向き合う時間が必要な気がして、
体質改善のためいろいろ試すようになった。
身体に向き合うことは、自分に向き合うことだと感じた。
正直に生きるって何だろう、そんなことをたくさん考えるようになった。
私は食べることがとても好き。
でも、それは、制限があることを身体が知っているから、
頭がそれに逆反応して食べたいっていう欲求が強くなるのかもしれない。
身体の反応に正直になることは、頭で考えることから離れないとなかなかに難しい。
例えば、疲れているから甘いものを食べたい。
これは頭の反応。
でも、いざ甘いものを食べたら胃がもたれる。
これ、身体の反応。
食べ物を口にする前に、本当に身体が求めているものなのか、身体と対話する。
そうすると、身体からの答えが返ってくるように思う。
食べることと私はつながっている。
さぁ、今日は何を食べようか。
2013年2月27日水曜日
唐獅子「こころのうつわ」
沖縄タイムス2月18日(月)付けの唐獅子に掲載されました。
ーーーーーーー
ときどき、人と話していて、ぎゅっとハグしたくなる瞬間がある。
別に悩み相談を受けているという状況ではないけれど、
何だかとてもその人が小さくみえて、
このまま消えてしまうんじゃないかと不安になる。
だから、どこにも行ってしまわないように、
ぎゅっとつかんで「ここにいて」と伝えたくなる。
でも、そういう状況のときに、
ほんとにぎゅっとしていいのかどうかなんてわからなくて、
それがもどかしい。
小さく見えているのは自分の気のせいかもしれないしなぁ、
などと考えているうちに、あれ、元に戻っているじゃないか。
何だったのだろう、あれは。というような経験が何度かある。
本当に、あれは何だったのだろう?
生き物が受け止められる苦しさやつらさの器にはきっと限界がある。
心が苦しくなってどうしようもなくなることって、
生きていく中でみんな少なからず経験することかもしれない。
でも、それを口に出さずに必死に隠して過ごしていても、
受け止められない程の量に達した時、
それらは行き場をなくして、ただただあふれるばかりになってしまうだろう。
自分がどれだけの器をもっているのかなんて知らないから、
我慢していることに本人が気づかない場合もある。
容量を超えると、涙になったり、いらいらしたり、
悪いときには身体の調子を崩したりすることだってあるかもしれない。
意識に対する身体からのイエローカード。
あふれ出る形はいろいろだろうが、
それらは全部、心身がバランスを保つためのシグナルなのだと思う。
小さくみえたあの瞬間、その人の器からも
収まりきれないものがあふれているまさにその瞬間だったのかもしれない。
本来その人が持っている元気とか楽しい気持ちなんかが弱って、
何だかいつもよりも小さく見えたのかな、と思う。
その人がその人でいることって、当たり前だと思っているけれど、
「いつものその人」らしい「何か」というものは、
とっても敏感で繊細で弱いものなのかもしれない。
敏感だからこそ、意識よりも先に身体は
「いつものその人」を取り戻そうと必死になってバランスを保とうとする。
身体からのシグナルに私たちはもっと素直に向き合う必要があるんじゃないだろうか。
ふぅっと一息、一呼吸。
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ときどき、人と話していて、ぎゅっとハグしたくなる瞬間がある。
別に悩み相談を受けているという状況ではないけれど、
何だかとてもその人が小さくみえて、
このまま消えてしまうんじゃないかと不安になる。
だから、どこにも行ってしまわないように、
ぎゅっとつかんで「ここにいて」と伝えたくなる。
でも、そういう状況のときに、
ほんとにぎゅっとしていいのかどうかなんてわからなくて、
それがもどかしい。
小さく見えているのは自分の気のせいかもしれないしなぁ、
などと考えているうちに、あれ、元に戻っているじゃないか。
何だったのだろう、あれは。というような経験が何度かある。
本当に、あれは何だったのだろう?
生き物が受け止められる苦しさやつらさの器にはきっと限界がある。
心が苦しくなってどうしようもなくなることって、
生きていく中でみんな少なからず経験することかもしれない。
でも、それを口に出さずに必死に隠して過ごしていても、
受け止められない程の量に達した時、
それらは行き場をなくして、ただただあふれるばかりになってしまうだろう。
自分がどれだけの器をもっているのかなんて知らないから、
我慢していることに本人が気づかない場合もある。
容量を超えると、涙になったり、いらいらしたり、
悪いときには身体の調子を崩したりすることだってあるかもしれない。
意識に対する身体からのイエローカード。
あふれ出る形はいろいろだろうが、
それらは全部、心身がバランスを保つためのシグナルなのだと思う。
小さくみえたあの瞬間、その人の器からも
収まりきれないものがあふれているまさにその瞬間だったのかもしれない。
本来その人が持っている元気とか楽しい気持ちなんかが弱って、
何だかいつもよりも小さく見えたのかな、と思う。
その人がその人でいることって、当たり前だと思っているけれど、
「いつものその人」らしい「何か」というものは、
とっても敏感で繊細で弱いものなのかもしれない。
敏感だからこそ、意識よりも先に身体は
「いつものその人」を取り戻そうと必死になってバランスを保とうとする。
身体からのシグナルに私たちはもっと素直に向き合う必要があるんじゃないだろうか。
ふぅっと一息、一呼吸。
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