2013年2月28日木曜日

Beyond The Place

久しぶりにweb albumを更新しました。

  Beyond The Place


2013年2月27日水曜日

唐獅子「こころのうつわ」

沖縄タイムス2月18日(月)付けの唐獅子に掲載されました。

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ときどき、人と話していて、ぎゅっとハグしたくなる瞬間がある。

別に悩み相談を受けているという状況ではないけれど、
何だかとてもその人が小さくみえて、
このまま消えてしまうんじゃないかと不安になる。
だから、どこにも行ってしまわないように、
ぎゅっとつかんで「ここにいて」と伝えたくなる。

でも、そういう状況のときに、
ほんとにぎゅっとしていいのかどうかなんてわからなくて、
それがもどかしい。

小さく見えているのは自分の気のせいかもしれないしなぁ、
などと考えているうちに、あれ、元に戻っているじゃないか。
何だったのだろう、あれは。というような経験が何度かある。

本当に、あれは何だったのだろう?

生き物が受け止められる苦しさやつらさの器にはきっと限界がある。
心が苦しくなってどうしようもなくなることって、
生きていく中でみんな少なからず経験することかもしれない。
でも、それを口に出さずに必死に隠して過ごしていても、
受け止められない程の量に達した時、
それらは行き場をなくして、ただただあふれるばかりになってしまうだろう。
自分がどれだけの器をもっているのかなんて知らないから、
我慢していることに本人が気づかない場合もある。
容量を超えると、涙になったり、いらいらしたり、
悪いときには身体の調子を崩したりすることだってあるかもしれない。

意識に対する身体からのイエローカード。

あふれ出る形はいろいろだろうが、
それらは全部、心身がバランスを保つためのシグナルなのだと思う。

小さくみえたあの瞬間、その人の器からも
収まりきれないものがあふれているまさにその瞬間だったのかもしれない。
本来その人が持っている元気とか楽しい気持ちなんかが弱って、
何だかいつもよりも小さく見えたのかな、と思う。

その人がその人でいることって、当たり前だと思っているけれど、
「いつものその人」らしい「何か」というものは、
とっても敏感で繊細で弱いものなのかもしれない。
敏感だからこそ、意識よりも先に身体は
「いつものその人」を取り戻そうと必死になってバランスを保とうとする。
身体からのシグナルに私たちはもっと素直に向き合う必要があるんじゃないだろうか。

ふぅっと一息、一呼吸。



2013年2月26日火曜日

きらきら

久々に月と海の近くに車をとめて、
波のキラキラ眺めたり、眠ったり。
海が側にないと補充できないものがある。

ありがとう、海
ありがとう、海を照らす月





2013年2月11日月曜日

ジュネチック in 伊計島 

カレンド沖縄さんに伊計島での展示のことを掲載していただきました。
どうもありがとうございます!!

カレンド沖縄 「ジュネチック in 伊計島 滞在制作現代アート展」




2013年2月7日木曜日

唐獅子「時間と光と色とが交差する時間」

沖縄タイムス 2月4日(月)付けの唐獅子に掲載されました。

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教室に残っていた複数の時計。
それらの針が指し示す時間はどれもばらばらで、
同じリズムで共通の時間を刻んでいると思っていたことは、
もしかすると勘違いだったのかもしれないと思わされた。

チクタクちくたくチクたくチくタく。

前回、伊計島での滞在制作展について触れたが、
その続きを今回は書きたいと思う。

旧伊計小中学校二階にある倉庫だったふたつの空間。
そこが私の展示場所だ。
狭くて打放しコンクリートの室内には窓もなければ電気もない。
ひとつの空間は天井が高くて小さくて、
もう一つの空間にはてらてらと光るアルミテープに巻かれた
大きな配管が壁から飛び出していた。
それがとても印象的だった。

私は、ホームセンターでアルミテープを購入して、
型枠をはずしただけのむき出しのコンクリートに沿って、
アルミテープを貼り始めた。
外気に向けて放熱するコンクリートは固くて冷たい。
けれどその表情は意外に豊かで、
アルミテープの上から指でこすると
凸凹の面やぴったりかっちりした面が現れてくる。
作業中、アルミ面に映り込む自分の手と
その先に続く身体のラインがぼんわり浮かび上がるのを眺めながら、
暗くて小さい空間にも光が届いていることを感じる。

ふと見ると、廊下を挟んで向かい側の教室の窓に備え付けられた
ブラインドの緑が映り込んでいることに気づく。
何もないように思えた倉庫には、光も色も存在していたのだ。
いつの間にか陽が沈む時間になっていた。
陽の光が廊下を渡り伸びやかに暗い部分にたどりつく。
アルミ面がぎらぎらと朱色の光を放っていた。

時間と光と色とが交差する贅沢な時間。

制作の間、私はふたつの空間を行ったり来たりしていたのだが、
片方で制作していると片方はほったらかしの時間になる。
どちらも同じ時間が流れているはずなのに、
ほったらかしの空間に戻るとどうも違う時間の動き方をしているように感じた。
けれど、夕刻の朱色に包まれる時だけは、
どこもかしこも同じ時間を共有しているかのようにひとつだった。

白くて四角い時計。同じふたつの時計が指し示すずれた時間。
それは、それぞれの場所で流れていた感覚的時間の差を象徴しているかのようだった。




「ジュネチック展」
会期
:2013年2月1日(金)~2月11日(月・祝)
10:00~18:00
会場:
旧伊計小中学校 2F
   
沖縄県うるま市与那城伊計224(駐車場:校舎前グラウンド)
入場料:無料

出展作家:
石垣克子、児玉桂、児玉美咲、佐藤大地、平良亜弥、西真理



唐獅子「タイムスリップ的感覚」

 沖縄タイムス1月21日(月)付けで掲載されました。

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あだ名って単純で明快で強烈でおかしい。
中学生の頃は、よくへんてこなあだ名をつけたり、つけられたりしたものだ。
「ちゃめ」なんてかわいいのもあったし、
「どんくん」「たぼみ」「あご」「かっぱ」
「めーめー」「とり」「ふたりぶん」など、いろいろ。
かく言う私も「べん」という、今考えると
なんじゃそりゃ、と思うあだ名で呼ばれていた。

あだ名は本名とは違う妙な親しみというか近さがある。
くだらないことがきっかけであだ名をつけられて、
いつの間にかなじんでいく。
あだ名と私との物語が親しみにかわるのかもしれない。
久しぶりに耳に入ってくるとあの頃のいろんなものがイメージ化される。
ある種のタイムスリップ的な感覚。

2月1日から、伊計島で滞在制作する「ジュネチックin伊計島」という
グループ展に参加するのだが、そのタイトル「ジュネチック」は、
道ジュネーの「ジュネ(巡る・連なる)」と
「チック(~的)」をかけあわせた造語で、
さまざまな歴史や記憶が残る空間で記憶や時間をジュネするという
コンセプトからつけたそう。

会場となるのは旧伊計小中学校。
かつて学舎だった空間には不思議な空気・時間が漂っている。
廃校前にあふれていた子どもたちの会話や熱気、
廃校後も確かに流れ続けている静かな時間。
それらは、運動場や廊下、教室、校内のあちこちでふわふわと浮いている。
校内に入ると、最初はそのふわふわしたものが
ぴったりと寄り添う感じでくっついてくる。
しばらくするとつーっと少しばかり離れて、
私との時間の流れ方との間に距離をおきながらふわふわ浮いている。

私はうろうろしたり、同じ場所でたたずんでみたりと、
その不思議な空気を感じていた。
そして、母校でもないのに、懐かしいような感覚と
今も流れる時間との中で、幼なじみたちとの時間を思い出していた。
あの独特の空気感はあだ名をふいに呼ばれたときの
タイムスリップ感とちょっと似ているな、と思った。

その場に行けない日も頭の中で何度も学校を訪れている。
まだ電気が通っていない自然光が差し込む校内の倉庫、
そこが私の展示場所。
あの独特な空気感の中でどんな作品ができるかと、あれこれ考えている。