2013年2月27日水曜日

唐獅子「こころのうつわ」

沖縄タイムス2月18日(月)付けの唐獅子に掲載されました。

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ときどき、人と話していて、ぎゅっとハグしたくなる瞬間がある。

別に悩み相談を受けているという状況ではないけれど、
何だかとてもその人が小さくみえて、
このまま消えてしまうんじゃないかと不安になる。
だから、どこにも行ってしまわないように、
ぎゅっとつかんで「ここにいて」と伝えたくなる。

でも、そういう状況のときに、
ほんとにぎゅっとしていいのかどうかなんてわからなくて、
それがもどかしい。

小さく見えているのは自分の気のせいかもしれないしなぁ、
などと考えているうちに、あれ、元に戻っているじゃないか。
何だったのだろう、あれは。というような経験が何度かある。

本当に、あれは何だったのだろう?

生き物が受け止められる苦しさやつらさの器にはきっと限界がある。
心が苦しくなってどうしようもなくなることって、
生きていく中でみんな少なからず経験することかもしれない。
でも、それを口に出さずに必死に隠して過ごしていても、
受け止められない程の量に達した時、
それらは行き場をなくして、ただただあふれるばかりになってしまうだろう。
自分がどれだけの器をもっているのかなんて知らないから、
我慢していることに本人が気づかない場合もある。
容量を超えると、涙になったり、いらいらしたり、
悪いときには身体の調子を崩したりすることだってあるかもしれない。

意識に対する身体からのイエローカード。

あふれ出る形はいろいろだろうが、
それらは全部、心身がバランスを保つためのシグナルなのだと思う。

小さくみえたあの瞬間、その人の器からも
収まりきれないものがあふれているまさにその瞬間だったのかもしれない。
本来その人が持っている元気とか楽しい気持ちなんかが弱って、
何だかいつもよりも小さく見えたのかな、と思う。

その人がその人でいることって、当たり前だと思っているけれど、
「いつものその人」らしい「何か」というものは、
とっても敏感で繊細で弱いものなのかもしれない。
敏感だからこそ、意識よりも先に身体は
「いつものその人」を取り戻そうと必死になってバランスを保とうとする。
身体からのシグナルに私たちはもっと素直に向き合う必要があるんじゃないだろうか。

ふぅっと一息、一呼吸。



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